大河ドラマ「麒麟がくる」第8回では今川義元とその師太原雪斎が登場してきました。
時は天文18(1549)年、十兵衛はまだ道三の家臣で、暫くして浪人となりますので、道三から「駿河潜入指令」でも無い限り、十兵衛と今川家との接点は無さそうに思えます。
しかし演ずるのは片岡愛之助さんと伊吹吾郎さんの大物コンビです。
当然主役である十兵衛との対面がなければご本人達は納得しないでしょうし、視聴者からも苦情が寄せられるでしょう。
「麒麟がくる」での今川義元の役割とは?
今回はそこに視点をあて、大胆な推理をしてみたいと思います。
【麒麟がくる】今川義元を演ずるのは片岡愛之助さん
片岡愛之助さんといえばかつてBS日テレで放送していた「歴史捜査」でチーフ捜査官を務め、その第1回(2015年4月9日)は本能寺の変を取り上げています。
改めてDVDを見返してみても、愛之助さんのスリーピースを着こなした姿や、低めのトーンはさすが歌舞伎役者-――-「いよォ、松嶋屋!」、まさに男前です。
さてその番組の中では、光秀の子孫明智憲三郎氏を捜査本部に呼び事情聴取を行い、氏の「光秀・家康共謀」説が陳述されていました。
そんな本能寺に詳しい愛之助さんが今川義元役?
もっと本能寺の変に関わりの深い人物を演じて欲しかったと思ったのは私だけではないと思います。
「まんぷく」の時も万平さんを犯罪者に仕立てる損な役回りでしたので、NHKは愛之助さんに冷たいなと感じてしまいました。
しかしキャストビジュアルでの愛之助さんはこれまでになく重量感のある壮年武将として登場し、出演シーンは限られるにしても、光秀に強いインパクトを与える役割が与えられているように見え、その役割に注目しています。
今川義元は東海最強の戦国武将だった?生い立ちを紹介!
今川家は足利将軍家の連枝として幕府創設に貢献し、吉良氏とともに将軍家に適当な後継者がいない場合、将軍を出せる家柄であると世間で言われてきました(徳川時代であれば御三家のように)。
代々駿河の守護職を勤めてきましたが、義元の父氏親の代に遠江の守護も兼ね、分国法である「今川仮名目録」の制定と相まって多くの守護大名が没落していく中、戦国大名として大きく脱皮していきます。
義元は永正16(1519)年氏親の三男として誕生しますが、4歳で仏門に出され、太原雪斎と出会います。
雪斎とともに京都妙心寺にて修行に励み、学識を深め駿河に戻った直後の天文5年氏親の後を継いだ長男氏輝、次男彦五郎が偶然にも同日に急死したため、家督継承権が巡ってきます。
雪斎らの奮戦により異母兄との家督争い(花倉の乱)を制し、将軍足利義晴の一字を賜った義元と改名して11代当主となります。
統治の初期こそ花倉の乱による家臣団の内部対立や北条氏綱の駿河侵攻、織田信秀の三河侵攻が重なり苦しい時期がありましたが、武田晴信(信玄)の仲裁による北条との和睦や三河の松平広忠(家康の父)の帰順を経て、徐々に領国経営は安定していきました。
天文22年には今川仮名目録に追加21条を加え、戦国大名として完全自立を宣言し、天文23年には甲相駿三国同盟を結び後顧の憂いをなくし、上洛への道筋である西部戦線に傾注できる体制を築き上げました。
弘治元(1555)年には、駿河・遠江・三河で検知を行い領国の経済的基盤を整えます。
同年、いわゆる「黒衣の宰相」として、今川家の内政、外交・軍事を支えてきた太原雪斎が亡くなりますが、もうこの時には「海道一の弓取り」としての義元の名声は並ぶ者がないほど高まっていました。
永禄元(1558)年には家督を氏真に譲り、上洛への体制を整えた上で、同3年桶狭間へ向かいます。
これを見ると義元という人物は、安定した領国を順当に受け継ぎ、公家趣味にうかれた「お坊ちゃん大名」という従来のイネージとはかけ離れた道を歩んできた武人であることが理解できます。
麒麟がくるでの今川義元が男前と言われているのは何故?
冒頭で、キャストの格からして十兵衛と義元・雪斎の対面が不可欠であると述べました。
この時の義元の姿が従来の立烏帽子に引き眉、お歯黒の義元であったらドラマにはなりません。
この場面は、「海道一の弓取り」と言われるに相応しい威儀と容姿を持った義元から上洛の強い決意が、それを支える軍略が雪斎から語られ、「我が意を得たり!」と感動する十兵衛―-そんな迫力ある場面でなければならないのです。
大物二人が起用された理由はここにあります。
今回の義元は貴人ではなく、武人でなくてはならないのです。
それではその場面はいつでしょうか?
雪斎は弘治元(1555)年10月に亡くなっていますので、対面はこれ以前でなくてはなりません。
この時の美濃は,前年に高政(義龍)が斎藤家の家督を相続し、道三は隠居しています。
想い出して下さい。京に留まって欲しいと頼む細川藤孝に十兵衛が言った言葉を!
「山城守様のお陰で美濃は一つになりました。が、何かが違う。美濃が本当に一つとなった時、再びお会いしたい。その時は藤孝殿をしっかり支えたい。」
十兵衛は学友である高政によって美濃が一つになったことを見定めて、美濃を辞去するのです(実際一つになった美濃は強く、信長の美濃攻略は桶狭間から7年もかかっています。)
美濃を出た十兵衛は義輝が雌伏している近江朽木谷に向かい、藤孝の推挙で幕臣となりますが、落魄した将軍には与える扶持はありません。
生計を立てるため京に戻り、医師東庵の弟子になった十兵衛ですが、しばらくして駿河行きの機会が訪れます。
「雪斎の病を診て欲しい」とする義元からの使者が東庵の許を訪れたからです。
初診が終わり東庵の口から助手の十兵衛が幕臣であることを聞いた雪斎は十兵衛の気骨を見抜き、義元に引き合わせ、ここに幕臣としての十兵衛が義元と対面するという場面が実現します。
京に戻った十兵衛は義輝の許を訪れ、「今川義元殿こそ頼りになるお方、数年で上洛致すものと思われます」と報告するのです。
しかし、十兵衛の奔走は桶狭間で潰えます——――帰蝶の夫信長によって。
こうして道三の弟子である二人のバトルがお互いを意識しないところから密かに始まっていくのです。
という訳で、くどいようですが今回の義元は男前の武人でなくてはならないのです。
この流れでは雪斎の脈を看取ったのは十兵衛となりますので、雪斎が末期の言葉として何を十兵衛に語るのかが楽しみです。
また、この時十兵衛は雪斎の弟子でもある松平元康(後の家康、幼名竹千代)と再会すると思われ、干し柿に端を発した二人の関係も新たな段階に入っていきます。
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